「千と千尋の神隠し」舞台版のカオナシがすごすぎて超考察したくなった

舞台版『千と千尋の神隠し』、2024年8月24日に迎えたロンドン公演千秋楽の興奮冷めやらず。というか、配信をギリギリの時間まで繰り返し観ては一人で盛り上がりました。

この作品での人気キャラクター「カオナシ」。アニメ版と舞台版で最も違いが出たのはこのキャラでした。なんといっても舞台版では、ダンサーさんが務める「踊るカオナシ」。

カオナシの正体やメッセージを真剣に調べたり考えたりしたことはありませんでしたが、ダンスからいろんなものが伝わりすぎて想像力が爆発(苦笑)。この際なので、アニメ版と舞台版の双方を観たことから考察できるカオナシの正体を語ってみたいと思います。

今後も舞台版が再演されることを切に願いつつ、ファンの皆様やこれから舞台版を観劇する皆様の予習になれば幸いです。是非最後までお楽しみください!

宮崎駿が語るカオナシの正体とは?考察の前にまずは基本

カオナシは、みんなの心の中にいると言う。

自分がない存在。相手によって態度を変え、他人の声を借りなければ声も出せない。

優しくしてくれた千尋の気を惹きたいと躍起になったが興味を示してもらえず、親の愛に飢えた子供のように湯屋で暴れまくる。なりふり構わず。

しかし受け入れてくれる居場所があれば大人しくなる。

こんなふうに、ちょちょっとググれば宮崎駿監督が語ったカオナシのイメージが簡単に出てくる。現代の日本が抱える社会問題こそがカオナシだと知って、自分のことだと反省した人も大勢いたようだ。

アニメ版の公開は2001年だった。ゆとり世代が中学生になった年。ゆとり世代のキャッチフレーズは「指示待ち人間」。自発的な行動ができず、物事を考えず、何か言われるまで動けない。

後から知ったことではあるが、ルールがない場所なら恥も迷惑も知らない大人たちが増えて社会問題になっていたのもこの時期。それまでは考えられなかった猟奇殺人も世間を震え上がらせていた。

当時まだ子供だった私が20年以上経ち、大人の視点で振り返ってみれば納得だ。

千尋がなぜカオナシを理解できたかも今なら分かる。神々の世界で鍛えられる前の千尋は、当時の子供の代表例だった。挨拶やお礼ができない。不機嫌でネガティブ思考。誰かの助けを借りないと生きられない。自分で考えて行動できない。

千尋もカオナシと同じような、弱い現代っ子だった。どことなく似ていたのだろう。だからカオナシがなぜ暴れるのか分かった。

「あの人、湯屋にいるからいけないんだよ」

自分がいる環境に影響され過ぎてしまう。悪友とつるんで非行に走ってしまう子供のように。職場や学校の人間関係に苦しんで心を壊してしまう人のように。金を求めてこびへつらう湯屋の従業員の欲望を吸って巨大化してしまう。

だけどカオナシは、千尋に導かれて湯屋を出ることができた。6番目の駅まで電車でデートし、優しくて賢いおばあちゃんと一緒に静かな場所で暮らすことになった。おとなしくお茶とケーキに呼ばれ、編み物を手伝うカオナシ。

みんな、ここのカオナシがかわいすぎてファンになっちゃうんだよね。分かりやすい悪魔ではないカオナシが、自分や周りの誰かに似ているから、キュンとしてしまうのだ。

アニメ版を見た時点での私自身の印象

宮崎監督ご本人が語るカオナシはそうとして、文学作品に正解はない。見た人それぞれが考察を持っていいものだと思っているので書こうと思う。私はというと、カオナシが自分を含めた現代人の悪いところを集めたような存在という考えには至らなかった。

カオナシはイラク戦争でアメリカが攻めたものソックリに思えた。

アニメ版映画が公開された2001年はアメリカのワールド・トレード・センターで同時多発テロ事件が起き、イラク戦争が始まった年。子供の私はアメリカのキリスト教圏とイスラムのぶつかりを初めて目の当たりにした。

家族の中でも学校でも、戦争のことを散々議論した。そんな中で『千と千尋の神隠し』が来た。カオナシがただ不気味に突っ立っているだけの存在から巨大な化け物に変わる姿を見て思った。

イラクと同じじゃん。触らなければ無害だったのに。

まあ、当時はそれ以前の現代史についても宗教についても、あまりにも無知だった。でも大筋は間違っていない。

テロ首謀者のビンラディンは捕まえたいだろうけどフセイン大統領ってどっから出てきたの?悪者なの?タリバンは嫌な感じがするけど、テロ首謀者だけでなくイラクという国を攻めるの?なんで?

戦争に正義などないと考えるようになった。アメリカが西洋の正義やら被害者としての報復の正当性やらを振りかざしているだけに見えた。対する中東の武装勢力も乱暴が過ぎると思えた。

それまでも社会問題や戦争のことを題材にしてきたジブリで、きっと宮崎監督はイラク戦争反対をぶっこんだのだと思った。イジるから、首を突っ込むから、相手の害悪を引き出して巻き添えを食らうのだと。

カオナシはアメリカの欲望によって暴力をその身に宿してしまったイラクやアフガンなどの中東。湯屋でカオナシが出す金を求めてこびへつらう人々が、一見正義だが欲望にまみれたアメリカ。そんな構造が見えた。

アニメ版の印象を突き崩し、統合させる舞台版のカオナシ

今思えば当時はまだまだ分析が足りなかったが、そう気づくことができたのは舞台版と見比べたからだ。今回の舞台版で、私の中でカオナシの正体がハッキリした。

カオナシが象徴するものは、顧みられない人々である。

前回の記事に書いたが、カオナシのダンスは宇宙の果てで何億年も彷徨ってきたかのような孤独を背負っていた。

重苦しいパーカッション、ピアノとチェロの低い旋律の中、邪悪な魂で瘴気を放つような踊り。かと思ったら、震えている。もどかしく体をくねらせ、最後は顔を覆ってむせび泣く。

どこまでも闇の中に落ちてしまいそうだ。いや、落ちたことがあるのかもしれない。助けて。助けて。そんな叫びまで聞こえてきそうだった。

深い深い宇宙的な孤独の闇を、カオナシは知っている。

このダンスを見て初めて、アニメ版で意識していなかったカオナシの特徴に気付いた。2024年現在。2001年よりもずっと進んだグローバル化。多様性と分断とソーシャルメディアの時代。

カオナシと似たようなものを見たことがないだろうか。

群衆に紛れるカオナシは足が透けている。みんなからは見えていない。息を止めた千尋も、みんなは見ることができない。なのに、みんなから見えないカオナシには千尋が見える。

見えないのに、そこにいる存在。気づいてもらえていないのだ。気づいてもらえるとしたら、1億分の1くらいの確率で自分とよく似た人に出会う時。

メディアで取り上げられる格差や差別や犯罪は多々あるが、そこから漏れる問題を抱えている人々。その人にとっては重大な問題なのに、重大とみなしてもらえないために孤独で静かに生きるしかない人々。大勢いるじゃないか。

カオナシは青蛙を丸のみにして声を出すことができるようになると、振り向いてくれない千の代わりに湯屋を巻き込む。大勢の欲望に応えたお返しとして贅沢三昧をするが、欲望を集めすぎて肥大化し、化け物になる。

化け物は本当の姿ではないのに、というところがミソだ。

今まで知られることのなかった社会の問題や人物が一度でも表沙汰になれば、どうだ。
今までコツコツ功績を残し、人に尊敬されてきた芸能人がほんの少しでも失言すれば、どうだ。

誹謗中傷の嵐と興味本位の野次馬ばかり。そんな外野たちが頼りにできるのは、自分の確固たる信念や考えではなく、大衆の正義に過ぎない。

問題発言や行動が炎上する時は、もちろん本当に問題が大きなこともある。しかし些細な事なのにソーシャルメディアやマスメディアで煽られる案件も山ほど。そんなものに大衆は惑わされ、社会は動いてしまっている。実にバカげている。

そこから逃げてしまえば、無害で静かな存在に戻る。体に集めた悪いものを全部吐き出して、どこか穏やかな顔になれる。

孤独と、差し込んだ光と、その代償。顧みられなかった人々が一度は味わう可能性がある天国と地獄。

驚きだ。アニメが作られた2001年当時だけでなく、2024年現在もなおカオナシは社会の鏡でいる。違った意味と特徴を持ってはいるが、間違いなく私達の中にカオナシが潜んでいる。

 

アニメ版だけでは漠然としていたカオナシの意味が、舞台でダンスという形を伴ったことで明確に浮かび上がった。踊るカオナシを作ったジョン・ケアードと演じたダンサーの方々に心から感謝します。

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