劇団四季の『キャッツ』がなければ私はこんなにもミュージカルに傾倒していなかった。現実の厳しさを知るまでは舞台女優になりたくて仕方がない10代を過ごし、好きが高じてミュージカル訳詞を学びにイギリスの大学院留学までした。
こきおろされた映画版が記憶に新しいので、もしかしたら四季版の観劇を躊躇している方もいるかもしれない。しかし、生の舞台を観ずに本作を語るなかれ。
この記事では、四季版を6回観劇した筆者が、舞台上で人間がCGなしで表現する猫たちの魅力を存分に語る。あなたも、猫たちに人生を変えられに行ってほしい。最後までどうぞ楽しくお読みください。
まずちょっと個人的な『キャッツ』との出会いを書かせてください
小学3年生の道を狂わせた作品
あれは小学3年生の時だった。『キャッツ』のチラシや新聞広告には、でっかく「あなたの人生をきっと変える」と書かれていた。
当時、すでに劇団四季の『美女と野獣』で「大人のミュージカルの世界」入門を果たしていたが、キャッツのチラシは舞台化粧があまりにも濃すぎて戸惑っていた。ちょっと気持ち悪いヤツだったらどうしようと。
終演後には1分ほど放心状態で椅子から立てなかった。そして「ママ、私、劇団四季に入る!」
両親にも学校の先生方にもそれから大変な心配をかけたが、結局普通に勉強して大学に入り普通に就職した私。しかし歌とダンスの才能があれば、そうやって本当に入団してしまう人もいるようだ。
当時の公演プログラムには、ミストフェリーズ俳優の方のプロフィールに「『キャッツ』に衝撃を受けて四季を目指す。」と書かれていた。ほら、そういう人いるんだよね。
観るたびに感動が増える
劇場に入った途端に現れるゴミ捨て場。猫たちはスラリと長い手足としなやかな体つきで自由自在に踊る。ニャアなんて一言も鳴かないのに人間に見えない。小学3年生が人生で一度も出会ったことのない名曲の嵐が耳を襲う。
血が逆流するとはこういうことを言うのだと思った。
大人になってからはグリザベラが天上に召される場面を涙なしには見られない。思い出にすがって涙を流すばかりの老婆が、認知症で亡くなった祖母の末期を思い出させるからだ。
英語の世界を知ってからは、早水小夜子さんではないグリザベラ、特にアフリカ系の女優さんがパンチの利いた声で歌う「Memory」にも夢中になった。映画版のJennifer Hudsonは滂沱。ブロードウェイのHeather Headleyの強烈な歌声も大好き。
音楽のこと、訳詞のことを学んでからはロイド・ウェバーという作曲家の偉大さが分かるようになった。ジャズ調の曲、パンクロック、バラード、そしてあの耳に残るオーバーチュア。これほど特徴が分かれた広い分野の曲を1つの作品に共存させることが、どれだけ難しいか今なら分かる。
四季版の魅力を形作るもの ~メッセージ、演出、振付~
猫を崇めるオッサンが語る、猫の尊厳
さて、多くの『キャッツ』ファンも劇団四季の公式サイトにも記載されているように、本作はT.S.エリオット作『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』という子供向けの詩集が原作となっている。
無類の猫好きなのだろう。崇め奉っていると言ってもいいかもしれない。それが、第1幕前半と第2幕の最後で顕著に現れる。
ジェリクル・キャッツとは、個性豊かでたくましく誇り高く在ることを望む。
猫が欲している真の名前を付けることは、人間には不可能である。「言うに言えない唯一のその名」は猫本人にしか分からない。
猫は犬にあらず。帽子を取って挨拶すべし。友達になりたいなら、もてなしを忘れずに。
子供向けの詩だからと言って動物愛護なんて唱えていない。猫という生の尊厳を謳っている。時に高らかに。時にひそむように。
こっちが人間として、相手が猫だからクスっと笑える。しかして、ジェリクル・キャッツは人間にへつらうことを望まない。雨にも負けず風にも負けず、自由な生き方を選ぶ。
面白いのは、「言うに言えない」という表現。英語の原作では2行にわたって書かれている。
His ineffable effable
Effanineffable
こう書かれている。
「ineffable」は映画でマキャヴィティの呪文に使われていたが、「effable(言葉で表せる)」という形容詞に否定の接頭辞がついた「言葉で表せない」の意。特に喜びが言い尽くせないときに使われる(Cambridge Dictionaryより)。そこに「effan」という接頭辞が付いているのが「Effanineffable」。
つまり「ineffable」に「effable」の頭を更にくっつけた、完全にエリオットのオリジナル。「言い表せるようでやっぱり表現しきれない」といった印象を付けるのだろうか。
こういった猫に対する深すぎるくらいの敬意を汲み取っていくと、とろけるように可愛い家猫と近づき難いジェリクル・キャッツは、完全に違う生き物に思えてしまう。
キリスト教的要素の強いメッセージ
さて、ジェリクル・キャッツ最大の幸福とは。それは天上に行き、新たな命に生まれ変わることなのだそう。「天上」と日本語で訳されているが、天国のことだ。
あらまあ、ここに来てものすごく宗教的。宗教は人間特有のフィクションであると主張する『サピエンス全史』はごもっともだと思える。
しかしエリオットには、猫も信仰を持ち、倫理観に基づいて生きているように見えたのだろうか。ここが非常に面白い。
今の生は仮の住処で、次の新しい命を授かる時に本当の幸福を与えられると信じている猫。エリオットが親しんだキリスト教の宗教観が強く出ている。この世でつらい日々を送っても清らかで誇り高い心を忘れなければ天国で報われるはず、という願望も現れている。
ここでエリオットの人物紹介を少し見てみれば、なるほど。彼がキリスト教に関連する文学作品に強い興味があったことが分かる。祖国アメリカでも移住先のイギリスでも、異なるキリスト教会の文化や主張に親しんできた。宗教に関わる文学の論評にも携わっていたようだ。
『キャッツ』四季版にしかない魅力 ~客席サービス全開の演出&加藤敬二さんの振付~
さて、ミュージカル『キャッツ』四季版の前にはもちろん原作のロンドン版、ブロードウェイ版がある。私は幸運にもブロードウェイ版のDVDを見る機会に恵まれたが、驚いた。振付と演出が全然違う。
四季版では猫たちがあんなに客席に降りてきてくれる。
最初のオーバーチュアで舞台上のゴミ捨て場が回り出すところから猫が見え隠れし、猫目をチカチカと光らせて客席を走り抜ける。
「Naming of Cats」でも客席を歩き回り観客の顔を覗き込んで語る。
カーテンコールは握手握手握手きゃ~♡だ。
だがブロードウェイ版では全然そんなことしていない。
また、日本版を観劇する人は必ず確認してほしいのが、客席を覆い尽くすゴミの山。上演される場所ごとに地元民が喜ぶお宝が隠れている。たとえば大阪なら551の包み紙、阪神タイガーズの古ぼけたぬいぐるみなど、ご当地のゴミが丁寧に作られている。
四季版のオーバーチュアではタントミールが衝撃的に強い存在感。ジェニエニドッツがタップダンスを踊る時、1列になっての群舞が見事。海賊猫グロールタイガーの劇中劇は大迫力。ミストフェリーズのマジック、フェッテ32回転、ターンジャンプは、凄技すぎて息ができない。
だがブロードウェイ版はもっと作り方が雑に思えてしまった。おそらく私がDVDで見たのはだいぶ古い演出だろうけれど。グロールタイガーのシーンなんて存在しなかったし(!)、なんだかどの猫の振付も似ったか寄ったかな気がした。
さらに、四季版の初演は、私が観劇した1990年代末期のものとかけ離れている。調べたところ、ラム・タム・タガーの風貌も、ミック・ジャガーではなくエルビス・プレスリーだった。タントミールもいなかった。振付も相当違ったらしい。
それをガラリと生まれ変わらせた新演出版が、私が観劇したバージョン。あのドキドキときめく猫の客席サービスも、息を呑むダンスも、実現させたのは一人の四季団員だった。ミストフェリーズ役から振付に転身した、加藤敬二さん。
もう…よくぞあんなに楽しいパフォーマンスにしてくださいました!!感謝!!加藤さんは世界のミュージカル史に残る天才だと信じている。
最後に ~『キャッツ』四季版のススメ~
ここまでさんざん語ってきたが、夢中でサントラを聴いたりキャラの絵をスケッチブックにいくつも描いたり、仕草を真似たりと、『キャッツ』狂いだった10代前半の頃をありありと思い出した。
あの舞台に立つんだ、と恋焦がれるように夢見た。そのくらい、この作品の影響は大きい。
映画版を見た方も見ていない方も、ミュージカル自体に縁遠い方も、ぜひ四季版を観劇してください。こんな楽しい世界はない、と思えるかもしれません。
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