『ジーザス・クライスト・スーパースター』シリーズ第4弾は、マリアの「I Don’t Know How To Love Him」の翻訳と分析に挑戦。イエスを愛する女性として登場する彼女はどんな描き方をされているのか。
歌うシーンの演出がバージョンによって違うと、観客が思い描くことのできるマリアの思いや人生も異なってくる。マリアが我々に届けてくれる愛とは?希望とは?
ちなみに、『ダ・ヴィンチ・コード』を見た方はご存じのように、マリアはイエスのれっきとした妻だったという説が出たが、こちらが事実。2016年にはローマ・カトリック教会が正式にマグダラのマリアが娼婦だったという通説を否定し、キリストの妻と認めた。
しかしこの作品が最初に作られたのは70年代なので、マリアは娼婦として描かれていることを予めご了承ください。
ぜひ最後までお楽しみください!
マグダラのマリアが歌うI Don’t Know How To Love Him【翻訳】
どうやって彼を愛したらいいの
何をするのか どうやって彼の心を動かすのか
私は変わった 本当に変わった
ほんの短い間で
今までの私が別人に思えるほど
どう考えたらいいの
なぜ彼は私の心を動かすの
彼は男 ただの男
私は今まで多くの男を知ってきた
いろんな男がいたけれど
彼もその一人にすぎない
ダメにしてやろうか
喚き散らそうか
愛を叫んで 心を解放しようか
こんなことになるなんて
一体なんなの?
おかしいわよね
私がこんなことを思っているなんて
わたしはいつだって
落ち着いて冷たくて
愚かな愛に落ちたことなんてない
ぜんぶお芝居よ
彼が怖い
こんなことになるなんて
一体なんなの?
でも もし彼が私を愛してると言ったら
どうすればいいか分からない 怯えてしまうだろう
耐えられない 絶対に耐えられない
後ろを向いて逃げてしまう
知りたくなんかない
彼が怖い
彼が欲しい
彼を愛してる
恋への戸惑いを必死に隠すマグダラのマリア
マリアの心情吐露はものすごくストレートだ。直球だ。なぜなら、この歌では誰とも会話していないから。イエスの寝顔を見ながら独白する場面だから。なんでも言えちゃう。
マリアにとってのイエスは聖人君主などではないと、この歌から分かる。人との出会いで今までの暗い人生に光が差すこと、考え方が変わることは多いだろう。イエスは思想と行動でマリアを変えてくれた。
2020年代の今でこそ職業の価値観は様々だが、1970年代の作品で、2千年前の娼婦マグダラのマリアという登場人物が、人生を謳歌していたと描かれるのは考えにくい。マリアがイエスと行動を共にして、廃れた人生が好転したと描かれるのが自然だろう。
だからマリアは、群衆が手に負えないわユダに怒られるわでイライラしているイエスに優しくしてあげるのだ。いい香りのオイルマッサージをし、リラックスして眠れるように癒してくれる。
簡単に告白できない恋をしたことのある人は特に、彼女の思いが理解できるはずだ。愛しているのに、どうやって愛するか、どうやったら愛してもらえるか。具体的な次の行動が分かればいいのに、どうするのか分からない。
最初の2行でマリアは愛し愛されたいという気持ちを呟いている。I don’t know how to love him. の直後にWhat to do, how to move him. と、彼を振り向かせたい欲求がある。
しかし、愛してほしいのに、娼婦という自分の背景が男を信じさせない。愛される幸せを許さない。
彼女は愛を売るのが仕事で、so calm, so cool に、淡々とお客にサービスし、no lover’s fool が普通だから愛を信じたことなんてない。Running every showだ。いつもお客を喜ばせる演技をしているだけ。
だから岩谷時子先生の訳詞では、いちばん最初が「男も女も愛したことなどないわ」となっている。人を信じたことが一度もない。愛などバカげていると思っている。
それなのにイエスの言葉や考えや慈善活動が響くのは、自分の暗い人生を形作っていた考え方を覆してくれたからだろう。そして、なりたかった自分を映し出していたからだろう。
ただ、唯一いまでも謎に包まれている訳詞は、最後のHe scares me so. を「怖くない」と逆の意味で訳しているところ。怖くないなら愛を告白しそうだが、その後でマリアとイエスが一緒にいるところは全く描かれない。
2001年映画バージョンでマリアの愛は残酷な結果に
しかし、「怖くない」というマリアの決意ともいえる思いに、残酷な答えを出しているのが2001年の映画バージョン。
マリアは歌い終えた後、思わずイエスの寝顔にキスをする。しかし顔を上げると、目の前にユダがしゃがんでいるのだ。ニタニタと笑って。
ユダはマリアに嫉妬している。イエスの一番の腹心を自負しているので、イエスが他の奴を、しかも娼婦を自分より大切に思っている様子なのが気に入らない。マリアがイエスのための高い香油に使ったお金で貧しい人々を救えよなんて言う。
ゲッ、見られた…という顔をしたのはマリアだけではなかった。ユダの気配でイエスも起き上がるが、そこでイエスはユダと無言でにらみ合った。マリアと目を合わせてはくれなかった。
それを見たマリアは、「うそだろ?」という顔でその場から走り去ってしまう。
最悪じゃん!!!そういう時はねぇイエスさんよぉ、マリアに「大丈夫だよ、怖がらなくていいよ」と逆にユダを無視してマリアを抱き締めるべきなんだよ!!!
って言ってやりたかった(失笑)。
このバージョンでは、イエスは誰が何と言おうと一人の女性を愛し抜けるほどの根性はなかったらしい。
イエスはたくさんの人を率いているがゆえに、娼婦の女性を愛するという社会的な体裁を気にしてしまった。これが2001年時点での答えだった。
それでもやっぱり、彼を愛する気持ちに偽りはなかったようだ。その後、マリアはピラトの尋問でイエスがヘロデ王のもとに連行されると聞いて「やめてえええ!」と悲痛に叫び、12使徒と共に「もう一度やり直せたらいいのに」と歌い、磔にされたイエスを泣きながら見上げる。
2012年UKアリーナツアー版がいちばん印象的
過去の記事でも語ったが、2012年UKアリーナツアー版のマリアは一番ファンキーかつ現代の私達にとって親しみやすい女性だった。
劇団四季では時代を反映したボロ、映画版では赤いシンプルなワンピースに黒い羽織を着ていたマリア。しかしUKアリーナツアーでの衣裳は安そうな白い膝丈ワンピースに黒い革ジャン、ブーツ、髪型は派手な編み込み。
現代で普通にいそうな、尖ったロックシンガー風。あえてもう少し偏見を持つなら、ドラッグ・煙草・酒・望まぬ妊娠・生活保護あたりを一通り経験している、社会の底辺にいる人。
そのマリアが歌の途中、最後のサビに行く前の間奏のすきにド派手な化粧を落としてしまう。真っ黒な目と赤黒い唇がサッパリし、ニコッと笑う。
どのバージョンの、どのシーンよりも泣けた。その方がよほど綺麗だよ、マリアさん。
想いを伝えることはできないかもしれない。彼の気持ちを聞くこともないかもしれない。でも、せめて彼の前でだけ、お芝居をやめて本当の姿でいよう、それを見てもらおうと思ったマリア。
アリーナツアー版ではここと、香油を塗るシーン以外でマリアとイエスが深い信頼関係にあるような演出はされていない。イエスとマリアの愛情関係を深く描くのはやめて、2千年前のキリストが現代の大SNS時代に同じことをしたらどうなるかに焦点を当てることに集中している。
しかし、この化粧を取るシーンのおかげでマリアの今後に希望が見いだせる。イエスがマリアを変えてくれたこと、間違いなくマリアはいい方向へと人生を転換させたことがよく分かる。夜の仕事とドラッグをやめて、人を助ける仕事をするようになるかもしれない。
ほかのバージョンではイエス亡き後のマリアが心配になってしまうが、UKアリーナツアー版でのマリアの描き方は非常に大きな効果を持っている。
いかがでしたでしょうか?やはり女性としてマグダラのマリアを無視するわけにはいきません。このマリアほど、描かれ方によって同じ人生が全く違った意味を持ち、観客に与える影響も違うと思わされる登場人物はいないかもしれません。歴史上の謎の人物はそこが面白い!
『ジーザス・クライスト・スーパースター』次回で最終回となります。いよいよユダとイエス、そして物語の核心に迫ります。
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