劇団四季が長年にわたり上演している『ジーザス・クライスト・スーパースター』。初めて観劇される方、予習を強くお勧めします。
私自身は高校生で初観劇、エルサレム・バージョンだった。感想は…
「これの何がいいの??さっぱり分からん!」。
え~んごめんなさい。そこから様々なバージョンの観劇回数を重ね、今なら少しは面白さを理解している。
正直に言えば、キリスト教が身近にある人や興味が深い人でなければ、最初から楽しむことは不可能。それくらい、聖書のエピソードが非常に哲学的に表現されている。予備知識なしだと何が起こっているか分かりにくい。
したがって、普段は知らない作品を初めて観劇する時に予習しない派の方々も、作品の背景をサクッと知っておけば理解が追いつくはずだ。
まず、この記事は初心者のための入門編。作品が初演された時のエピソード、基本のあらすじ、見どころの場面や曲をご紹介します。次の記事では様々な演出をご紹介、その後でお気に入りの楽曲に翻訳を付けてみようかなと思っています。
是非最後までお楽しみください!
『ジーザス・クライスト・スーパースター』どうやって初演された?
『ジーザス・クライスト・スーパースター』(以下JCS)という作品を全く知らずに初めて観劇すると、オーバーチュアが流れた途端に度肝を抜かれるはずだ。
うそでしょ…2千年前のイスラエルなのに、ものすごいハードなロック!!?
エレキギターがギュンギュン鳴り、ホーンセクションが吠える。人工的な電子音、不可解なメロディ、複雑怪奇な和音が響く。
この衝撃的な音楽を作ったのは、かの有名な作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバーと作詞家ティム・ライスのコンビだ。ミュージカル好きなら誰もが知る重鎮が若かりし頃、初めてその名を轟かせた作品。
JCSは最初からミュージカル作品だったわけではなかった。海外作品ではよくある手法だが、まずはコンセプト・アルバム(世界観や物語を表す曲を集めた音楽アルバム)が作られた。これで何曲かヒットを飛ばしたうえで上演にこぎつけようとしたわけだ。1970年のこと。
またたく間に話題を呼び、あっという間に1971年ブロードウェイ初演。1972年ウェストエンド初演。1973年には映画版も。
全編にわたり台詞がなく歌だけで進行するので、正確にはミュージカルというより「ロック・オペラ」と定義される。『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』の先駆けのような作品だ。
すぐさまミュージカルファンから熱狂を浴び、宗教関係者からは怒りを買うという素晴らしいスタートを切った。劇場に観客が押し寄せる中、プラカードを持ったキリスト教関係者がボイコット運動したという。
これだけでどんなに衝撃作かつ問題作だったかが分かる。古めかしい人々や制度に激怒される芸術作品は、新しい時代を切り拓く。
ロックの曲に乗せて、イスカリオテのユダも、イエス・キリストも、聖なる存在ではなく一人の人間として生々しく心情描写された。もちろんマグダラのマリアも、12使徒やユダヤとローマの権力者たちも。
アメリカはじめヨーロッパの人々にとって、キリスト教は日本人が考えるよりずっと身近な宗教だ。キリスト教徒は毎週日曜日に教会へ行き、精神を整えるのが習慣。聖書の研究やら道徳の話やら歴史やらが、生活に深く浸透している。
その聖典の人物たちがロックで描かれちゃうなんて、新鮮だっただろうなぁ。日本で言うなら古事記の神々もしくは大化の改新あたりがロックで描かれる感覚と似ているかも。
基本のあらすじ
まず大前提として、物語はイエス・キリスト最後の7日間を描いている。一言で表すなら、キリストがヒーローから転落して処刑されるまでを、主にユダの視点から描いたもの。キリストの物語でありながら、実のところ主人公はユダと言ってもいい。
最初はキリストをなんでもできる神ともてはやし、信じ込む群衆がいる。もはや制御不能の中でキリストと信者たちはエルサレムへ入城するも、キリストを敵とみなす者たちの魔の手はすぐそこに。
ユダはこの権力者たちの力を借りて、キリストを裏切ることになる。
キリストの隣にぴったりと寄り添うのは、娼婦だった過去を持つマグダラのマリア。おおっぴらに恋人同士と言ってはいないが、ずっと目を三角にしているキリストが唯一、子供のように甘えられる存在と見える。
理想の社会を実現したいと望み、キリストにもストイックさを求めるユダと、キリストの癒しになりたいマリア。キリストは明らかにマリアが与えてくれる安らぎが好きで、ユダにはついていけていない様子。
しかし、キリストを神と崇める人々とは違い、ユダとマリアはキリストの一番の理解者であることに変わりない。
いろいろ葛藤した末、ユダは銀30枚と引き換えにキリストをローマの権力者たちに売り渡す。最後の晩餐、なぜか裏切り者の存在を知っているキリストは、悲しみと怒りを次第に爆発させていく。ユダもブチ切れ、ついには罵り合いに。
裏切りなど信じない他の使徒たちが呑気に眠っている中、キリストは一人、天に向かって自分のやりきれない思いをぶちまける。そして晩餐を飛び出したユダは、キリストを逮捕する権力者たちとともに戻ってくる。
裁判が始まり、キリストは目を覆うような残酷な仕打ちを受ける。ユダヤ属州の総督ピラトの尋問、ガリラヤの領主ヘロデ王の尋問、鞭打ち。なにより、今まで付き従っていたはずの群衆が罵声を浴びせる。
ユダはキリストを裏切ったことを苦に自殺、キリストは磔という悲劇の最期を迎える。聖書に書かれたとおりに。
きっと好きになる!物語を進行させる名曲たち
なんてったってオーバーチュアは血が沸騰するが、全編が歌のロック・オペラだけあり名曲ぞろい。代表曲である “Gethsemane” と “Superstar” は別の記事で翻訳に挑戦するが、それ以外にも心躍る曲が次々と流れては、キリスト最後の7日間を色濃く描く。
そこで、私の独断と偏見で「きっとあなたも好きになる!」と思う曲を厳選し、場面の描写とともにご紹介したい。ご観劇の際は是非とも注目してほしい。
Heaven on Their Minds & What’s the Buzz
オーバーチュアから勢いづいたギターが毒々しいリフレインを刻み、ユダが歌い出す。
布教を始めた頃は、ただ神の教えに沿った良いおこないや考えを広めようとし、キリストも単なる人間だった。しかし今はまるで神のように扱われ、人々が押し寄せている。
乗せられてしまったのか宣伝作戦か知らないが、自分を神の子だと信じ始めている様子も見えるキリスト。救世主を名乗り、大勢の崇拝者を率いている。ユダはそんな彼が心配でならないのだ。
キリストを神と信じて群がる人々が、いつかキリストがただの人間だったと知ったらどうするか。失望し、危害を加えるのではないか。ずっとキリストのそばで、誰よりも力になってきたユダは、突っ走るキリストにストップをかけようと必死になっているが、キリストは聞く耳を持たない。
この場面はいたたまれない。大スターにキャーキャー言う群衆は、キリストが救ってくれる、世界を変えてくれると過度な期待をしている。対して大スターが心配でならない古参の仲間。群衆は勘違いをしていると知っているからだ。
Simon Zealotes
熱心党シモン。狂信者として描かれる。ローマへの反逆を志す若者だ。
歌詞が単純明快にシモンのキャラを描いている。ここまで来ると、アイドルやスターに身も心も捧げる「もはや気持ち悪いレベルで熱狂的なファン」も同然。ローマへの恨みが深く、キリストが導いてローマを倒し、代わりに王になってくれと願っている。
5万の人々が味方する。彼らはあなたを愛し、あなたのためなら何でもする。あなたには力がある。ローマを憎み、権力を奪おう。栄光を掴もう。
お気づきのように、王になって権力を握るのはキリストの望みと食い違う。だからキリストは直後に「おまえたちは栄光とは何か分かっていない」と静かに嘆く。
こういう人がいるから評判が行きすぎたり、噂に尾ヒレがついたりするんだろう。もっと言えば、こうやって苦境に立たされている人々が、支配からの脱却とか死後の幸福とかを求めて宗教にハマるんだろうなと思わされる。
これだけだと「うへぇ」となるかもしれないが、曲がとにかくいい。群衆を煽るシモンの激熱な歌唱が気持ちいい。激しいダンスが満載。シモンに率いられる5万の群衆の一人になったつもりで楽しめる。
The Temple
この場面には2曲存在するかと思いきや、同じメロディの1曲だった。まるで別の2曲のように、ほんのちょびっとキリストの独唱を挟んで、全く違う雰囲気で繰り返されている。
まずは人々が集う露店で様々な商品が売られている。お安いよ、買っていきな。賭けをしてみな。町一番の上等品だよ。いい酒だよ。金がないなら借りなよ。時間は過ぎていくんだ…
キリストが祈りのために使っている寺院が、俗世の欲にまみれたマテリアル・ワールドになってしまっていたのだ。それを見たキリストは怒りに任せて人々を追い散らしてしまう。
これをきっかけに、ああもう自分に残された時間は少ないかもしれない、とキリストは思い始める。人々の心を良い方向に変えることができない無力さに疲れ果ててしまったのだ。
その直後には同じ曲で、2倍くらい遅いテンポで流れだす。今度は悶え苦しむ人々が群がってくる。
眼が見えない人。歩けない人。皮膚病の人。貧困にあえぐ人。みんな、キリストに触れたがって手を伸ばしてくる。祝福を受けたい。苦しみから救ってほしい。痛みを治してほしい。
しかし、多すぎる。キリストはたった一人なのに、苦しむ人々が押し寄せても到底救いきれない。ついにキリストは「自分で治せ!」と、禁断の一言を叫んでしまう。
それを言っちゃ終わりだよ…でも本当にそうなのだ。自分で考えたり行動したりできない人は、力のある人に頼ることばかり考えている。キリストは超能力者ではないのに、怪我や病気や貧困を物理的に直してくれると思い込んでいる。
どこまで行っても物質的な世界。もう救世主でなんかいられない。のしかかる重荷に耐えきれなくなったキリストは、マグダラのマリアの膝で眠りこむ。
ちょっと音楽に詳しい方はきっと気づくが、この曲は7拍子。そう、プログレッシブ・ロックによく使われる変拍子だ。このリズムのいびつさが、キリストの作りたかった幸せな社会から乖離した現実を突きつけるようだ。
I Don’t Know How To Love Him
娼婦だったがキリストについてきて心を清めることができた女性、マグダラのマリアが心情を吐露するバラード。
私含め『ダ・ヴィンチ・コード』を見たフェミニストの方々は異論があると思うが、70年代の作品なのでマリアの来歴には目を瞑ろう。それを抜きにしても、この曲は刺さる。めちゃくちゃ刺さる。
マリアは人を愛したことなどない。愛を信じたこともない。いつも冷たい目で人を見てきた。キリストも、今まで知ってきた多くの男たちと同じ。でも、彼について行くようになってから劇的に変わった。
彼を愛している。でも、伝えたら彼は去っていくだろうか。でも、もし彼に愛していると言われたら?私はきっと逃げてしまう。
彼が恐ろしい。それでも彼に思いを伝えたくて叫び出しそうな自分がいる。こんな気持ちになるなんて。
愛なんて知らずに終わる人生だと思っていたのに愛することを知って、愛されたいのに愛を伝えられることは怖くて、秘めていたいのか伝えたいのか行ったり来たり。
マグダラのマリアは娼婦だったという過去と、それなのにキリストの最も大切な女性になったということばかり強調される。しかしこうやって歌を通すと、ただの一人の女性としての気持ちが鮮やかに浮かび上がる。私も同じ女性としてズキュンと来てしまう。
ちなみにこれ、眠っているキリストの隣で歌うのだが、聞いていないのが前提なので堂々と歌える。しかしもしも、もしも男性が女性のこんな気持ちをコッソリ聞いてしまったらどう思うんだろう。ほっとくのかな?包み込んでくれるかな?
『ジーザス・クライスト・スーパースター』入門編、いかがでしたでしょうか?英語がOKな方は、英語版のCDや映画版を一度見てから四季版を観劇しても理解が10倍深まると思います。
次回以降も引き続き語っていきます。お楽しみに!
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