2024年12月から帝劇クロージング公演を飾るミュージカル『レ・ミゼラブル』。その原作小説を書いたフランスの作家ヴィクトル・ユーゴーは、どんな人生を歩んだのか。
ユーゴーが生きた時代背景は?家庭生活は?ほかの作品は?『レ・ミゼラブル』とユーゴー自身のつながりとは?政治家としての活動は?辻昶・丸岡高弘共著『ヴィクトル=ユゴー(人と思想 68)』(2014)を参考文献に、19世紀フランスで活躍した偉大な作家の生涯を追います。
是非最後までお楽しみください!
尚、固有名詞の表記は参考文献どおりではなく、2024年現在に標準とされているもの(ユゴーではなくユーゴ―等)を採用しています。
ヴィクトル・ユーゴーの誕生と青少年時代
ヴィクトル・マリー・ユーゴー(以下、ユーゴ―)は1802年2月26日、フランス東部の町ブザンソンにて誕生した。
父はナポレオン軍の将校ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー。家具職人の息子だったが職業軍人で、フランス革命からメキメキと頭角を現した。文学好きとのことで、ユーゴ―の文学の才能は父から受け継いだものかもしれない。
母はナントの裕福な商人の娘ソフィ・フランソワーズ・トレビュシェ。両親を早くに亡くしていたため独立心が強かった。夫との仲は冷めており、スペイン軍の将軍となった夫が単身赴任中、子供たちともにパリで生活していた。その後もユーゴ―の両親が和解することはなかった。
ユーゴ―は庭で遊んで自然を愛することを覚え、近所で塾を開いていた司祭からラテン語とギリシャ語を学び、母に人生を教わった。
そして母の愛人でヴィクトルの名付け親でもあるヴィクトル・ラオリーからは、父の代わりのように遊びや勉強の相手をしてもらった。
このラオリーはナポレオン打倒の陰謀に巻き込まれて投獄されるが、幼いユーゴー少年に自由の大切さを刷り込んだことで、暴君ナポレオンと戦う英雄としてユーゴ―の幼心に刻まれる。
ナポレオンが没落した後フランスに帰国した父親により、ユーゴ―は母親から引き離され寄宿学校に入れられる。このときの辛さをユーゴ―は詩で書き残しているが、彼にとって父は母を虐待し自分を母から引き離す暴君として映っている。
どことなく、ユーゴ―自身の両親や家族を取り巻く人々が『レ・ミゼラブル』のマリウスとその父親、祖父の関係に似ているのがマニアとしては見逃せない。
また、寄宿学校に通っていた頃にシャトーブリアンという当代随一の文学者の影響を受け、「彼になりたい!」と詩人になる決意を固める。このときユーゴ―14歳。
さらに初恋の相手アデールと文通をし、結婚の決意も固め、ペン1本で食べていけるようにと20歳そこそこで猛烈な文学活動を展開し始める。
華々しい詩人デビューと7月革命
1822年には処女詩集『オードと雑詠集』を出版。王党派詩人として名を馳せ、国王ルイ18世の目に留まった。これで早くも経済基盤をととのえたユーゴ―はアデールと結婚もできた。
さらに評論家のサント・ブーヴと友人関係を結んだことで、心理描写や社会問題にも関心が向くことになり、自由主義にも目覚め始める。1827年には若いロマン派の作家たちが多く住む地域に引っ越し、これをきっかけにロマン派のリーダー的存在になっていった。
そんな折、1824年にシャルル10世が即位してから政治情勢が反動化した。
カトリック教会の強化、貴族の保護、言論・出版の自由の抑圧、制限選挙の強化、そして経済不況への無策。
この「7月勅令」に対し、パリの手工業者や商人など貧困にあえぐ人々と学生たちがバリケードを築いて蜂起し、「栄光の3日間」での市外戦を経てシャルル10世が亡命する。「7月革命」である。
その結果、ブルジョワジーがオルレアン公ルイ・フィリップを王位につけ、立憲王政を確立。「7月王政」が発足した。たった1か月の間に起こった大きな政変であった。
フランスの社会と同様に、ユーゴ―のプライベートもなかなか波乱の時期だった。この頃のユーゴ―といえば、妻アデールとサント・ブーヴとの浮気が発覚してユーゴ―自身もジュリエットという愛人を作った。
品行方正だったのに、それ以来のユーゴ―の女性関係はずいぶん派手になってしまい、ほかの愛人とのスキャンダルも世間を騒がせた。さらには愛娘が結婚後まもなく事故死。
しかしそんなゴタゴタとは裏腹にユーゴ―のキャリアだけは躍進を続けた。1830年、ロマン主義の立場で初めての劇作『エルナニ』を上演。
当時の文学界で主流を占めていた古典主義に真っ向から対立を挑んだ。劇場では両者陣営のヤジが飛び交う「エルナニ合戦」が繰り広げられた。ほくそ笑む若い作者の顔が目に浮かぶようだ。
1831年にはミュージカル『ノートルダムの鐘』の原作小説『ノートルダム・ド・パリ』も世に出した。
さらに「7月王政」以降は文学で社会改革の必要性を訴えつつ、自らも政治活動を開始。王政に接近してオルレアン公と親交を持ち、アカデミー・フランセーズの会員にも選ばれ、子爵に叙せられ、貴族院の議員として政界に進出した。
祖国は革命。家庭人としては最悪。でも文学者としてはイケイケゴーゴーな若手時代である。
その後は詩をポツポツと書きながら、大作『レ・ミゼラブル』の前身となる作品の下書きを開始。しかし、1848年に「2月革命」が起こると作品の執筆は中断された。
2月革命から亡命まで
1848年2月22日の「2月革命」は共和派が中心となり、貧苦のパリ市民を味方につけて起こった。
国王ルイ・フィリップはイギリスへ亡命。革命が勃発した時、ユーゴ―は貴族院議員だったので王政の支持派だったが、ユーゴ―のような大人気作家の演説をもってしても民衆の怒りを押さえることはできなかった。
その結果として一度は穏健共和派が政権の中心となるが、民衆はこれで満足せず、「6月事件」では社会主義勢力が中心となって蜂起した。
ユーゴ―はこの事件の際、労働者たちが築いたバリケードまで行った。王党派の議員として、軍隊と一緒にバリケードの民衆へ向けて降伏勧告をしようとしたのだ。
しかし、降伏勧告に応じない民衆に、軍が容赦ない弾圧を加えたのを目の当たりにした。これ以来、ユーゴ―は王党派から距離を置くようになった。
なるほど、『レ・ミゼラブル』でバリケードの闘争が血生臭いほどリアル感たっぷりに、詳しく描かれている理由が分かる。こうしてバリケードに立てこもる労働者たちとその無残な敗北を、政府側の人間として目撃してしまったのだ。
王党派の代わりにユーゴ―はナポレオン1世の甥、ルイ・ナポレオンを支持するようになったが、彼は大統領になった途端に王党派が多数を占める議会に迎合してしまう。
期待外れだった。ユーゴ―は自身の政治新聞や議会でルイ・ナポレオンを攻撃したので、じわじわと権力を大きくしていたルイ・ナポレオンにより言論弾圧を受けた。
さらにルイ・ナポレオンは軍事クーデターと国民投票を経て、皇帝ナポレオン3世として即位。第2帝政を開始した。
皇帝は自分に反旗を翻す議員を次々に逮捕していった。ユーゴ―は幸運にも逃げ延びたが抵抗運動も失敗し、1851年12月11日夜にベルギーのブリュッセルへ向けて出国。さらにイギリスへと移る。
これが19年にわたる亡命生活の始まりだった。
亡命生活とナポレオン3世への「ユーゴー砲」
ブリュッセルに亡命した当初、ユーゴーは小さな部屋で慎ましやかな生活をしながらも、ナポレオン3世を罪人のようにケチョンケチョンにこきおろす『小ナポレオン』を出版。
しかしベルギーはフランスの影響を大きく受ける弱小国のため、ブリュッセルにもいられなくなり、半年後の1852年8月にはイギリスのジャージ―島へ脱出した。
家族を呼び寄せて海のほとりに住んだユーゴ―は、夏は英仏海峡の美しい景色を楽しみ、冬は厳しい寒さと濃霧に気分をどんよりさせられる日々を送った。
自然の厳しさを全身で感じながら、知り合いの紹介で「交霊術」にハマった。亡くなった愛する娘をはじめとし、たくさんの亡霊と交信する体験をしたことで、作品には神秘主義的な側面が現れるようになる。
しかし、ジャージー島での生活はクリミア戦争で英仏が同盟を組んだことによる影響で終わってしまった。1855年10月、ユーゴ―一家はジャージー島の隣のガーンジー島へ移住。政治に関係ない作品をフランスで堂々と売り、印税収入を得ながらの生活となった。
ただ、イギリスの小さな島へ移り住んだことがユーゴ―自身には合っていたが、妻や子供たちは華やかなパリの社交界を恋しがり、家族はバラバラになってしまった。その中で唯一ユーゴ―と最後まで添い遂げたのは、なんと愛人のジュリエットだった。
さらに、実はガーンジー島にいた期間が、ユーゴ―が作家として最も重要な時期だった。収入源となる叙事詩などに加え、ユーゴ―はナポレオン3世を攻撃するため、文春砲ならぬ「ユーゴ―砲」とも言うべき政治的な作品も容赦なく出していた。
その中の代表作で1862年3~6月に出版された社会小説が『レ・ミゼラブル』。亡命者…というか皇帝にとっては反逆者であるユーゴ―の作品が、フランスの大衆の間で絶大な人気を呼んだ。貧しい労働者もお金を出しあって買うほどだった。
今、「まじか!」と思ったあなた。そうです。『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンが牢獄に入れられていたのがなぜ19年間だったのか。
何を隠そう、この渾身の傑作はユーゴ―自身の19年に及ぶ亡命生活の中で書かれたのである。
ユーゴ―、英雄として帰国
第2帝政が次第に弱ってくると出版・言論の統制もゆるくなった。1867年には、舞台『エルナニ』を再演。ユーゴ―が名を馳せる重要なきっかけとなった作品を第2帝政下のパリで再演したとき、ユーゴ―はやはり亡命者であるにもかかわらず大観衆に賞賛された。
パリでこれを見届けた妻のアデールは、まもなく病没した。
ユーゴ―はナポレオン3世の治世が終わりに近くなっていることを感じていた。その決定打となったのがプロイセンとの普仏戦争。
しかし、ユーゴ―にとってナポレオン3世が敗れて没落するのはいいが、祖国フランスが負けたらどうしようと、不安な日々を過ごした。
何年も前、ナポレオン3世は国外追放になっていた罪人に恩赦を出していたので、ユーゴ―はとっくに帰国できる権利を持っていた。しかしナポレオン3世に決して屈しないと、帰国を拒否していた。それでも、このときばかりは普仏戦争に志願兵として参加したいと、帰国の途に就いていた。
彼がブリュッセルに着いたのと同時期、ナポレオン3世はスーダンでプロイセン軍に降伏。捕虜となってしまった。第2帝政は廃止され、フランスにふたたび共和制が樹立された。
1870年9月5日、ユーゴ―は19年の亡命生活を終えてついに帰国した。群衆に歓喜の声で迎えられながら。
パリ・コミューンとユーゴ―の晩年
普仏戦争終結とナポレオン3世の失脚まではよいが、講和条約でフランスはアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲する屈辱的な結果に終わった。保守的な体制から抜け出すことができないフランス議会に愕然としたユーゴ―は、せっかく復職した議員を辞職した。
そのすぐ後、パリでは講和条約を不服とする急進共和派が武装蜂起して臨時政府「パリ・コミューン」を設立。すぐに共和国政府に鎮圧されてしまったが、ユーゴ―はこんなふうに国内で人々が争い合う祖国に心を痛めた。
普仏戦争は終わった。屈辱的な講和条約も結ばされた。なのに、フランスの国民同士で傷つけ合うなんて。
武装蜂起するパリ・コミューンもそれを弾圧する政府軍も、ユーゴ―には理解しがたいものだった。
ユーゴ―は弾圧されていたコミューン参加者を擁護したことで危険な立場に置かれ、パリ市民からも疎まれ、またしてもイギリスのガーンジー島に避難する。
2人の孫と愛人ジュリエットとともに、ゆったり暮らすこと1年。ほとぼりが冷めたころにパリへ戻り、ふたたびロマン派の詩人で小説家、および共和派の議員として活躍した。
1881年には80歳のお祝いがパリで華々しく行われ、ユーゴ―と愛人ジュリエットが住んでいたエーロー通りが「ヴィクトル・ユーゴ―通り」と名付けられた。
さすがに創作力が衰えていた彼は過去の未発表作品をまとめて出版し、「80歳超えてもまだ書くんかいこのジイサン」と人々が呆れるほどだった。
しかし、添い遂げた愛人ジュリエットが1883年に亡くなり、ユーゴ―はとうとう生きる気力を無くしていく。そして1885年5月14日から始まった心臓発作により、5月22日に亡くなった。83歳だった。6月1日には共和国政府により国葬が行われ、200万人に見送られた。
だいたいの人は小説家になりたくても全然売れなくて無名のまま終わるか売れるまでに何十年もかかるかするのに、最初からヒットを飛ばすのが流石ユーゴ―としか言いようがない。
デビュー当時からフランスに賞賛され、文学が人々の役に立つこと、政治や社会を動かすことを望み、生涯にわたって猛烈な勢いで、どこにいようとも作品を生み出した大作家ヴィクトル・ユーゴ―。
政治、大衆の社会、文学の形式、自然、そしてキリスト教。自身を取り巻くこれらの時代背景や文化の影響をあますことなく作品に投影している。
すさまじい創作意欲と問題意識。
同時に、やはり天は二物を与えないというか、偉大な作家ではあるが家庭生活は崩壊していたというのが悲しい。
ユーゴ―の最期を看取ったのは孫たちだったが、妻も愛人も子供たちも、1人を除いて全員がユーゴ―よりも先立ってしまっていた。
しかも生き残った1人は、亡命生活中の厳しい生活に耐えかねて統合失調症を発症し、精神病院にいた。
83年の長い一生の間、大切な人々を見送って、見送って、最後にひとり残された。彼の文学を支持する大勢のファンとひきかえに。
19世紀フランスに生き、21世紀の今もなお人々の心に作品を刻み付けているユーゴ―。波乱の人生のどの段階でどのような作品を生み出したのか。
今後『レ・ミゼラブル』や『ノートルダムの鐘』を観劇する時はそれを思い出し、深掘りすると作品が10倍も面白くなることは間違いない。
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