劇団四季オリジナルミュージカル『ゴースト&レディ』が好きすぎて原作漫画をついに読みました。
漫画を滅多に読まない私が一晩で上下2巻イッキ読みするほどの大スペクタクルでした!これをよくぞミュージカル化してくださいました!ということで、ミュージカル版と漫画版の本作を比べて相違点を語ります。
原作にしか描かれていないエピソード
逆にミュージカルで新たに描かれたエピソード
知っていればミュージカルを100倍楽しめること間違いなしの豆知識
是非最後までお楽しみのうえ、物足りん!と思ったら是非ご観劇ください。絶対に損はさせません!
よりファンタジー色が強い原作『ゴースト&レディ』
生霊と幽霊が見える体質
当たり前ではあるが漫画だと生身の人間が舞台で演じるよりもファンタジーの世界を表すことができる。
漫画で生身の人間とゴースト以外に印象深く何度も登場するのが、生霊。生きている人間の心には必ず存在していて、恨みや悪意などマイナスの感情を人に向けるとき、背中からヌ~~っと出てくる。
敵意を抱く人間同士が向き合っていれば、それぞれの背中の生霊も戦っている。形は人によって違うが、どれもめちゃくちゃ恐ろしい怪物の姿をしている。
ゴーストにはよく見えるが、人間は「見える体質」でないと分からない。
主人公のフローレンス・ナイチンゲール(以下、フローと呼ばせていただきます)は幼い頃から「見える体質」なので、グレイ(シアター・ゴースト)のことも見えた。もっと言えば、それが原因で変な子と思われていたし、神の啓示も聞こえた。
グレイがフローに出会った時、彼女の生霊は彼女自身をグサグサと攻撃し、フローはボロボロだった。グレイに言わせると「マクベス夫人のように」今にも狂いそうなヤバイ顔をしていた。
両親に看護の道を頭から否定される時、スクタリ野戦病院で軍人たちとやり合う時、フローを相手の生霊たちが攻撃する。ジョン・ホールも特大の生霊を持っていた。しかし最終的に、野戦病院でうっぷんを募らせたフローはホールの10倍はある巨大な生霊を出現させ、彼を打ち負かす。
ちなみに、ミュージカルでグレイが人間の心臓に剣を当てると煙が出てきてその人が腑抜けになってしまうのだが、漫画でここはグレイがその人の生霊を斬ったときの設定。
面白かった設定がある。世界には生霊だらけ、つまり人の悪意に満ち満ちているというのに、劇場で楽しいお芝居を観ている時には生霊が消えているらしい。劇場から出れば世界は生霊はギエェェ~とか恐ろし気な声で咆哮し、うるさくてたまらないのに、劇場は静かなのだという。
グレイが劇場を愛する理由の1つはそこにある。ミュージカル大好き人間の私としては激しく同意。劇場で物語や俳優さんに熱中している時間は現実を忘れられる気持ち、ものすごくよく分かる。
黒博物館の「かち合い弾」を見に来る老紳士
原作漫画は「黒博物館」シリーズの1つなので、フローとグレイの話に入る前には黒博物館に客が訪れるという大切な前書きがある。
その客こそ、グレイが生きた人間の体を借りた老紳士。その老紳士の正体は最後の最後に明かされるが、なななんとクリミアの野戦病院でフローが命を救ったあの…「僕の天使を守ると決めた」とか言っていつもほんのちょっと遅いあの…
ちなみにその紳士、フローの紹介で戦争の後は大学へ進学し、「ジョン・ホールの100倍いい男だぜ」とグレイは評価する。
紳士が見に来たのは「かち合い弾」。過去の記事でもご紹介したが、この作品が生まれるきっかけになった。
クリミア戦争の跡地から発見されたもので、銃弾が正面衝突し、つぶれたマカロンというかUFOみたいな形になっている。この遺物についてミュージカルでは語られなかったが、漫画では最後にこれが大団円の中心になる。
まあ、この小道具はちっちゃすぎるので舞台で映えないし、使っても漫画で描かれている場面を同じくらい感動的に再現するのは不可能だと結論付けられたのだろう。
本作のクライマックスといえば、フローが宿敵ジョン・ホールと対決する雪原。「あなただけは許さない」とフローはホールに銃口を向けるが、グレイの声で手を下ろす。
しかし漫画では、フローが弾丸をぶっ放すのだ。ホールを撃とうとしたその弾丸に、グレイが咄嗟に体を借りたもう一人の男が、弾丸を真正面からぶつける。そしてフローはホールを殺さずに済む。
グレイがそのとき体を借りたもう一人の男こそ、黒博物館の客として訪れる老紳士である。
そして紳士の体を借りてまでグレイが黒博物館に「かち合い弾」を見に来た理由は、グレイがフローの話を学芸員に語って聞かせるお礼として、この遺物を借りたかったからだ。
そう、幽霊なんだから盗もうと思えば勝手に持っていくことだって可能なのに、わざわざ借りたかった。
あの男が老紳士になる時代と言えば、フローはもう亡くなる頃。ついにその時がやってきてグレイは彼女と再会し、天国へ行く前に「サムシング・フォー」の1つとして「かち合い弾」を渡すのだ。
この「かち合い弾」の贈り物はミュージカルでは使われないので漫画でしか味わえない感動。ちなみにミュージカルでは、「ランプの貴婦人」を象徴するオイルランプになっている。
私はどちらも大好き。どちらも見事な伏線回収。血が逆流するような震えが来る。
『ゴースト&レディ』人物と歴史、描写の違いが面白い!
フローとホールに度肝を抜かれる
漫画とミュージカルでいちばん違う人物描写はフローとホール。この2人が対決するクライマックスは、台詞が忠実に再現されている。それくら大切で核心に迫るメッセージが込められている。しかし人物の描写そのものは違うという点で面白い。短く言えば、漫画での2人はだいぶ激しい。
ミュージカルでのフローの人物像は芯が強くて上品で、知識や判断力をもって様々な困難に立ち向かう切れ者で、孤独で強くて弱い一人の女性。
漫画では、それに加えて尋常でない眼ヂカラが描かれている。
彼女は最初、疲れきったような目をして生霊に体を切り刻まれている。その危うさが消えるのは、迷いなく前だけを向きながら次々と大事を成していく野戦病院。
次にやるべきことが見えている時は、ギッと前を睨みつけているのだ。
一方のジョン・ホール。こいつは間違いなくサイコパスだ。
ミュージカルを観た時、野戦病院の現状を放置して本国イギリスに嘘の報告をする意味が分からなかった。バレた時の痛みより、現実を重く見て適切な対策を講じる方がいいに決まっている。誠実さや優れた判断能力だってそうやって評価される。
なのになぜ?と思っていたら、漫画では明確に書かれていた。正しいことが嫌いなのだと。
つまり、素晴らしい人材と評価されることをすべて逆にすればこの男になる。さらに、人の不幸や痛みが大好きなようだ。こういうイッちゃってる奴が戦争で医療のトップを牛耳っていたのだから、病院など機能するはずがない。大いに納得。
サイコパスのジョン・ホールと、神の啓示で人を救うことを生涯の仕事としたフロー。
いわば、これは旧勢力と新勢力や男女のぶつかり合いといった人間臭いものではない。2人のやったことは真反対だが、どちらもごく普通の人にはできない。
2人とも精神的・心理学的に平凡ではない人間で、1人は悪い方向へ、もう1人は良い方向へ特徴が出た。それがクリミア戦争でぶつかった。そう言っても過言ではない。徹底的に両極端な悪意と善意がガチンコ対決をしたのが、2人の関係だった。
漫画にはあってミュージカルにはないエピソード
ミュージカルでは第1幕と第2幕で合計2.5時間という時間的制限があるため、原作漫画のエピソードが少しずつ削られている。ミュージカルでごっそり抜け落ちている場面は、クリミア戦争前に看護婦の駆け出しとして活躍していた場所の話だ。
ロンドンのハーレーストリート(医者や学者が多く集まる高級住宅街。『ジキル&ハイド』でジキル博士の自宅もここ)にある淑女病院。フローはドイツで看護の修業をした後、ここで看護婦の総監督になった。いわば婦長のようなマネジメントを初めてやったのがここ。
漫画にはここで彼女が断行した大改革、街で取り組んだコレラ対策、そこからどうやってクリミア戦争に飛び込んだかが描かれている。
旧体制を否定し、新しいことを始めようとする彼女はここで既に古い権力と戦う練習ができていた。戦争という男が牛耳る現場で、頭がカチンコチン?脳みそが悪い意味で筋肉?みたいな男と真っ向から対決し、尊敬される女性になる準備が半分できていたのだ。
ミュージカルにあって漫画にはないエピソード
逆にミュージカルで新しく追加された、漫画にはないエピソードも興味深い。挙げ連ねると、元カレと看護仲間エイミー、円グラフ、女王陛下、そしてランプ。
アレックスという名の元カレは「サムシング・フォー」をフローにくれた男性だが、フローは看護の道に進むためフッてしまう。
しかし戦場で再会し、「もう一度やりなおそう。守るから」と言ってくれるが、フローは再び拒否。フローが欲しいのは、自分の行動に制限をかけてくる人ではないからだ。そして彼はフローの代わりに看護団で活躍していたエイミーという女性とくっついてしまう。
これはつらい。めちゃくちゃつらい。バリキャリにブッ刺さる。
目の前でほかの人が幸せな結婚をしていく。私はいつも一人で頑張っているだけ。男どもはいつも女を守ろうとするけれど、それは閉じ込めること。私を理解し、背中を押し、一人の人間として愛してくれる男性なんて、いない。
早く結婚して子供をたくさん産んで、男性に従って、社交界で富や美を競い合う?そんな誰でもできる女の生き方なんてつまらない。これは信じて突き進んでいる道。自分で選んで人生を捧げた道。他の誰にもできない道。
だけど、他の大勢の人が手に入れられる幸せは、私にはないの?
一度でも同じ思いをしたことのある女性なら、フローの孤独が胸に迫るはずだ。
次に円グラフ。過去の記事でフローは医療統計学の祖と書いた。ミュージカルでは患者の死亡率とその原因を円グラフに表し、本国に報告として届ける場面があり、舞台の床にも彼女が発明した円グラフが象徴的に描かれている。
しかしこのエピソード、漫画には一切書かれていない。地道な学問上での作業だから、生霊たちが戦う漫画よりも、生身の舞台でむしろ印象が強く付けられるのかも知れない。
さらにヴィクトリア女王陛下。フローの活躍を本国で知り、彼女の報告で様々な改革を行うことができた女王。
晩年のフローに叙勲までした女王が、漫画には出てこなかった。これもファンタジーと心理描写が中心の漫画では話が少し飛びすぎるかもしれない。しかしミュージカルではヴィクトリア女王がいかにフローを高く評価しているかが曲になってまとめ上げられ、見ていて気持ちが良かった。
最後はフローレンス・ナイチンゲールといえばのランプ。実は漫画には「ランプの貴婦人」という超重要なキーワードが一度も出てこない。代わりに、ランプを手に病室を見回る優しい顔つきのフローが大きな画で描かれ、彼女の影にそっとキスする兵士がいる。
しかしミュージカルでは、このランプは「かち合い弾」の代わりと言ってもいい重要な道具。暗い夜に病室の見回りをするフローの身を案じて、グレイが「ランプ、持って行けよ」と手渡してくれたものだ。
そしてフローが天国へ行く前、グレイから贈られる「サムシング・フォー」の中の1つとして、漫画で贈られた「かち合い弾」の代わりになっている。
ラストシーンでは、空にいっぱいの優し気なランプ。
終わりに
絵で表現する漫画と、生身の人間が表現するミュージカル。何が人の心を掴むかはそれぞれ違う。その取捨選択にオリジナリティができる。
その点で本作はどちらも魅力が詰まっている。それぞれの素晴らしさ、芸術性の違いは比べてみて初めて分かった。どちらか一方だけでは決して気づけなかった。
その意味で原作の漫画は、ミュージカル化することで生身の人間の手で再現されたというよりも、新しく生まれ変わり魅力が増大したと言える。
あー楽しかった!どちらか一方しか知らない皆様、是非もう一方もお楽しみを!
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