ミュージカル『美女と野獣』を語るシリーズ第3弾。
舞台版と実写映画では野獣のソロの持ち歌がなぜか全然違う。作品ごとによくあることではあるが、なぜだろう。
その理由を紐解くため、野獣のソロ曲で舞台版にしかない「If I Can’t Love Her(愛せぬならば)」、実写映画にしかない「Evermore(ひそかな夢)」を、日本語の逐語訳をつけて比べてみたい。
野獣ファンの皆様、これから野獣を好きになりたい方、是非最後までお楽しみください!
If I Can’t Love Her(愛せぬならば)舞台版のソロ曲
英語歌詞の逐語訳
私のゆがんだ顔
優しさがあった痕跡など
かけらも残っていない
罰を受けたこの姿
安らぎもなく 逃げることもできない
見える世界の奥底は闇に呑まれている
希望はなく
時は流れ
夢は消えていく
失せた幻を愛して
どうにもならず
許されることはなく
冷たく悲しい結末に向かう
美しさに心は動かされず
善に導かれることはなく
この世に力などない
もし彼女を愛せないなら
情熱など持てない
教訓など響かない
どうしたら彼女と愛し愛されることができるのか
もし彼女を愛せないなら 誰を愛するというのだ
こうなってしまうことを
ずっと前に分かっておくべきだった
浅はかにも 前へ進んでしまったのだ
これほどの痛みがあろうか
これほど見下げ果てた人生があろうか
何もない 彼女を愛せないなら
心を失ってしまうだろう
希望は何も残らない
彼女を愛し 解放されればどんなに良いか
だが愛せないなら それは叶わない
私とともに世界も終わってしまえばいい
【感想】なんて暗い歌なんだ!
改めて見てみると救いようのないほど絶望している。
魔女が残していったバラに触ろうとしたベルにめっちゃ怒鳴りつけ、ベルが城に留まるという約束を破って雪の中へ飛び出してしまう場面で歌われるこの曲。歌の前には野獣の目の前でバラがまた1枚、花びらを落とす。
癇癪を抑えることができず、出会ったばかりのベルに酷いことばかりしてきた。でも、すでにこんなに好きでいるのに、魔女に野獣の姿にされてから少しも変われない自分。彼女こそがたった一人の愛する人のはずなのに、なぜこうなってしまうのだ。
自分のしたことと、怒りを抑えられないダメさ加減に相当ショックを受けている野獣が見て取れる。ものすごく落ち込んでいるじゃないか。
ここでひとしきり溜息をついた後でハッと我に返り、「そういえば彼女が出て行った城の外には狼が!」と気づいて追いかけるのね。ボーっとせず駆けつけたことで間に合って良かったわね(笑)。
歌詞だけ見ると暗くてウジウジして「しっかりせんかい!」とケツを叩きたくなる曲だが、これから舞台を観る方々は期待してほしい。本当に感動的で壮大なバラード。中毒になりそうなくらい美しい歌声で、野獣がビシッと第1幕の最後をシメる。
ここ以外、野獣がどれほど孤独を抱え、ダメな自分にどれほど悩んでいるかを吐露する場面がない。観客は野獣の心情を胸にジンと染み込ませ、第2幕を待つことになる。
Evermore(ひそかな夢)実写映画のソロ曲
英語歌詞の逐語訳
私はすべてを手にしていた
私は私の運命の支配者だった
人生に誰も必要なかった
真実を知った時には手遅れだった
痛みを振り払うことなどできまい
眼を閉じても彼女がそこにいる
彼女は私の憂鬱な心に忍び込んできた
耐えられない
知っているんだ
彼女は私を置いていかないと
たとえ逃げ去ってしまっても
彼女はまだ私を苦しめる
私を静め 傷つけ 心を動かす
何があろうとも
一人きり 塔の中で衰えながら
開いた扉のそばで待っている
彼女が帰ってきて
ずっと一緒にいてくれると
愚かにも望みながら
愛の試練に悶え
消えゆく光を呪う
彼女はすでに手の届かぬ場所へ
遠くへ飛び立ったのに
彼女はまぶたから消えない
知っているんだ
彼女は私を置いていかないと
たとえ目の前から消え去っても
なおも勇気づけてくれる
私のすることすべての一部となって
一人きり 塔の中で衰えながら
開いた扉のそばで待っている
彼女が帰ってきてくれると 愚かにも望みながら
長い長い夜が始まり
望んでいたことを思い描くだろう
ここでずっと待ち続けながら
【考察】愛を知ったことの価値
こちらも感涙を誘う壮大なバラードだが、つらい。これはつらい。
自分はベルを心から愛し、魔法を解いてくれる存在だと一瞬でも信じた。
彼女も自分を少なくとも嫌ってはいないと確認もできた。
だから、すべての望みが崩れ去った衝撃と脱力は大きい。城を去ってお父さんのところに帰ってしまったら、おそらくもう二度と、閉ざされた城で野獣と共に暮らそうなどとは思わないだろうから。
ただ、ひとつ言えるのは、「愛せぬならば」を歌う心情よりもずっといい。ベルは野獣にとって、もう囚われの身として縛りつける対象ではない。望みを叶えてあげたいし、彼女を不幸にすることは耐えられない。
自分の幸せよりもベルの幸せを考えて背中を押せるまでに愛することができたのだから、愛せなかったときよりもずっと多くを学び、心は豊かになった。
これを歌いながら野獣は城のいちばん高い塔に上り、馬で駆け去るベルの後ろ姿が見えなくなるまで見下ろしている。胸が張り裂けそうな歌詞なのに、メロディは抱き締めるような優しさがある。
歌詞にあるとおり、彼女がいなくなっても彼女がくれたぬくもりが心に残っている。報われることはなかったが、彼女のおかげで自分は変われた。人を愛するということを知った。素晴らしく価値の高いことのはずだ。
なぜ野獣のソロ曲が舞台版と実写版映画で変わったのか?
「Evermore」の解説記事より
英語版Wikipediaで舞台版の「If I Can’t Love Her」が実写版映画で使われず「Evermore」に置き換わった理由が述べられているので、重要な点を抜粋しつつ考察してみたい。
「If I Can’t Love Her」も「Evermore」も作曲はアラン・メンケン、作詞はティム・ライスが担当。2人とも舞台版のために作られた「If I Can’t Love Her」を実写版映画でも使ってほしいと主張したが、舞台と映画の構成上の違いのために別の曲が必要になったという。
つまり、舞台は第1幕と第2幕に分かれ、「If I Can’t Love Her」は第1幕のシメの曲として狙いを定めて作られた。
対して映画は「三幕構成」(three-act structure)と呼ばれる構成、つまり物語をザックリ3部分に分けて展開させるのが定番。「Evermore」は2幕目と3幕目の切り替わり部分にあたるとのこと。
映画の中で物語がクライマックスに向かっていくとき、野獣が本当の愛を学んだ「Evermore」という大名曲が来ることによってメリハリがつくのだ。
もともと、最初のアニメ版で野獣のソロ曲は存在しなかった。アニメ版を見た方はハッとするだろうが、そう。野獣はベルと打ち解けて雪遊びをするところで、1フレーズちょこっとだけ歌う箇所しかない。
ベルと並ぶ主役の野獣にはソロ曲が絶対1曲は必要。でも映画の構成上「If I Can’t Love Her」はタイミングが良くなくて使えない。となると、歌うのにふさわしい場面はどこか。もうここしかない。
やっと愛を知ったのに、その愛は自分に帰っては来ず、ベルを解き放つ結果になった。自分はもう愛されることはなく、人間にも戻れない。そう悟った野獣の愛の深さと自己犠牲を、これほど鮮やかに描くことができたのはこの曲が初めてだった。
「If I Can’t Love Her」リプライズよりも深い愛を描ける「Evermore」
実は舞台版にも、ベルをお父さんのところに返す同じ場面で野獣が歌う。しかしそこでは、「If I Can’t Love Her」のリプライズが使われている。
つまり歌詞を変えて同じ曲を歌う、ミュージカル独特の手法が使われた曲である。
このリプライズも日本語の逐語訳を付けてみよう。
魔法は解けなかった
言葉もなかった
彼女に愛されないなら 何のために生きるのか
その望みはない
夢は消え失せた だから
私は永遠にこの希望のない世界にいるしかない
あとは死がこの身を自由にしてくれるのを待つばかり
この歌を、うなだれて、ゆっくりと、消えるようなか細い声で歌うのが舞台版。やはり救いようがなく暗い。
実は「If I Can’t Love Her」は『美女と野獣』といえばこのイントロでしょ!という有名なメロディに歌詞を載せた唯一の曲。
作品を見たことのある方は分かるはず。いちばん最初から全編にわたって物悲しく流れ、野獣が王子に変身する場面では迫力のオーケストラで奏でるアレだ。
アニメ版の時点では作られなかったこの曲を、舞台版の大事な場面で使っているなら映画でも使ってほしかっただろう。ボツになったのはどんなに悔しかったか想像に難くない。
しかしその代わり、泣く泣くボツにした名曲に勝るとも劣らない名曲を再び生み出したアラン・メンケンとティム・ライスに大拍手をお送りしたい。
「愛されなかったらどうしよう」でもなく、ベルを失って「愛されませんでした。人間に戻ることもないです。もうダメです」と悟った絶望に焦点を当てた「If I Can’t Love Her」とそのリプライズでもない。
「愛を知ることができた価値の高さ」に重点が置かれた「Evermore」の方が、確かにグッとくる。悲しくて泣きながらもどこか微笑みが零れるような。
最後に
野獣のソロ曲を比較、違いを考察してみました。いかがでしたか?両方とも聞いてみたいと思われた方、ぜひとも映画で予習をしてから舞台版をご覧ください♪それぞれの曲がどのように効果的に使われているかがよく分かります!
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